おすぎです。


11日間のクルーズを終え、南極から今日、ウシュアイアに戻ってきました。

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2017年2月16日、念願の南極大陸への上陸を果たしました。上陸の瞬間は雨でしたが、時間が経つにつれて雲が切れて晴れ間が顔を覗かせます。本当に感動的な瞬間でした。

しばらく更新が途絶えてしまったのは、南極にいたからです。


いや、幾らかお金を払えば、クルーズ船のインターネットに接続できたんですけれど、


貧乏旅行者である僕は、そういうところではお金を使うのを我慢して、

ウシュアイアに戻った今、船が到着した港近くのカフェでこのブログを書いているというわけです。


ただ、正直に言って、今回のブログは書くのが難しいなぁと思っています。


それは僕が南極で見たもの、経験したことが、

僕の手持ちの表現力や語彙力では到底現しきれない、本当に素晴らしいものだったからです。

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空の青と、海の青と、雲の白と、氷河の白。それだけのシンプルな世界が、こんなにも色鮮やかであることが信じられませんでした。360度、見渡す限りこの光景がどこまでも広がっている、それが南極というところです。「青」「白」という言葉が実は何も説明できていない、言葉がいかに弱くて儚いものかを痛感せずにはいられない世界、それが南極だということもできるかもしれません。

南極を旅するということや、南極という世界の美しさ、素晴らしさについて何かを語るには

「南極について、僕は決して正確には書けない」

「南極の美しさを、写真に収めることはできない」っていう告白のような、

このとっちらかった感じの文章が、一番誠実でかつ合目的的だろうと、少なくとも今の自分には思われます。

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この写真は少しわかりにくいんですが、「グレーとブルーのコントラストの美しさ」っていうのが南極の特徴の一つかと思います。実はこの氷河、青く光る物質は何も含んではいないそうです。


「南極でも米ドル使えるよ」とか、

「環境省に提出する書類、忘れずに!」みたいなトリヴァルな情報


「南極に連れてってくれたみんなに感謝!!」

「ありがとう!南極最高!!」


みたいな、旅人さんのエクリチュールで書かれる楽しい旅人ブログ調のテクスト


心優しい日本人旅行者の皆さんや、陽気なメキシコ人のルームメイト、

いつもはにかみながら話しかけてくれるアイルランド人のブロンドの女性、

7ヶ国語を操るという、僕と同い年くらいのマレーシア人の男性や、

何かにつけて、声をかけてくれたいろんな国のいろんな仲間たちとの出会いと交流について書くことで、


あるいは、

「もうこれ以上の経験はないやろう」っていう僕の予想を良い意味で、毎日毎日裏切ってくれる、ペンギン、アザラシ、そしてクジラといった野生動物との出会い

について、ドラマティックに書くのも良いかもしれません。


事実最終日、僕が乗る小型ボートにクジラが遊びに来てくれて、
手を伸ばせば届く距離でクジラを見ることができたときは、本当に感動しました。
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少しわかりにくいですが、写真の一番右端で控えめにiphone片手にクジラに見入っているのが僕です。この日クジラと戯れることのできた幸運のゾディアックは三隻。そのうちの一隻に乗っていたのが僕でした。写真は別のゾディアックに乗っていた女性が撮影したもので、クジラを収めたベストショットの一つとして、船内でエアドロップ経由で拡散されまくっていた映像です。

はたまた、

フルコースで供される毎日のディナーや決して乗客を退屈させることのない、船内活動やアクティビティーの数々といったクルーズ船における日常生活のあれこれについて記すことも、

南極に興味がある人や、具体的に南極への旅行を検討している人にとって有益な情報になりうるでしょう。


そして実際にそういったことをありのまま、面白おかしくブログに書き記すことで、

あの素晴らしい体験を一人でも多くの人と共有できたらな・・・っていう気持ちはもちろん僕にもあります。


でもそういう、南極体験のいわば断片を寄せ集めて書いた南極についての文章は、

あそこで経験したいろんなことの素晴らしさを損なってしまうんじゃないだろうか。

そんな気が僕にはするので、


そういったものを迂回して、南極の素晴らしさそのものについてダイレクトに響く文章を書きたいな・・・


って思ってしまうんです。

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人間の慣れって本当に怖いもので、南極活動3日目のこの日、もうすでにペンギンに関してはお腹いっぱいになるくらい見ていたので、何にも考えずにシャッターを切って取れたのがこの写真です。成鳥になる直前の子ペンギン4羽が仲良く日向ぼっこしている映像です。

で、早速前言撤回してしまうのもなんなんですけど、


南極の素晴らしさは、そこにいった人にしかわからないですし、


それを言葉や、それ以外の方法で表現するっていう仕事は、

到底僕には歯が立ちそうにないって言うことを正直に告白しなければいけない、と言うことになるわけです。


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この日は朝から快晴で、雪と氷の美しい風景取り放題の1日でした。(場所はどこだか忘れました)

「南極は一面が雪と氷で覆われた、真っ白な世界でした」


「世界中のいろんな種類の『白』を集めた場所、それが南極でした」


「水面に映る氷山、南極大陸の美しさは思わず息を飲むものでした」


「氷山の青と、グレーの空のコントラストが素敵でした」


「氷山を真っ赤に染め上げる南極の夕日に心が洗われる心地がしました」


「朝焼けに染まる山々には神々しささえ感じました」


「クジラが、僕の乗っているボートに遊びにきてくれました」


「たくさんのペンギンが、僕の足元を走り去っていきました」


「海に漂う氷の上で優雅に昼寝するアザラシを数え切れないくらい見ました」


とまぁこんな感じで、南極での経験について語れと言われればいくらでも語ることができます。


けれど、それは南極について何かを語っているようで、

実は南極について、ほとんど実際は何をも語ってはいないと思うんです。


むしろ、南極的なるものを傷つけ、損なっているとさえ思います。(すみません)

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繰り返しになりますが、曇天では氷河の「青さ」が本当に映えます。このグレーと青のコントラストは本当に幽玄な雰囲気を醸し出します。しかもその世界が水面に映って、完全な上下反転の世界がボートの下に現れます。辺りを包むのは静寂だけ。このまま時間が止まってほしいとさえ思った瞬間でした。


南極では、すべての人が名カメラマンになれます。


適当にカメラを構え、自分の好きなタイミングで適当にシャッターを押せば、

誰でもあの美しい世界の断片を、とても印象的に切り取ることができます。


なんの難しい理屈も理論も必要ありません。


けれど、そうして切り取られた風景の写真は、何かを説明できているようで、

あの空間に流れている何ものをも説明することはできていないと思うんです。

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ペンギンの写真は本当にたくさん取れたんですが、この写真が一番好きです。彼らは何を考えているのか?いつも不思議に思います。

実際僕は今回のクルーズで、本当に数え切れないくらいの写真を撮りましたし、

その全てがベストショットだと言えるくらい、たくさんの美しい映像を、このチープなカメラに収めることができました。


けれど、


それらのどれ一つをとっても、あの雪と氷の世界の美しさをほとんど表現できてはいない、

今はそんな風に思っています。

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今にも崩落しそうな氷柱です。これもそこいら中で見ることができます。時折静寂を破って雷が落ちたような轟音が鳴り響くときがあるんですが、これがテレビなんかでおなじみの、氷河が溶けて海面に崩れ落ちる時の音だと教えてもらった時にはちょっと鳥肌が立ちました。ただ、音が聞こえて来た時にはもう崩落は終わっていることが多いので、その瞬間を映像に収めることは残念ながら叶いませんでした。

僕が乗船したクルーズ船には、生物学者や地質学者といった専門家も複数乗船していて、

クルーズの合間に、南極に関する専門的な講義を開いてくれます。


彼らは地質学者の視点で、あるいは生物学的見地から、

南極がいかに生物多様性に恵まれた素晴らしい場所であるか、

あるいは、この世界を彩る無数の氷河や氷山がいかに美しいかを語ることができます。


けれど、


例えば「多変数解析関数」の、複素平面における振る舞いがどれほど美しくかつ魅惑的であったとしても、


それがこの世界の美しさそのものを表現することができないように、

(岡潔なら、「できる」というのかもしれませんけれど)


彼らの語る言葉もまた、南極について、少なくともその「美しさ」については、


残念ですけど、ほとんど何も表現できていなかったのではないか、と僕には思われるんです。


もちろん、それが彼らの、学者としての価値をいささかも減じるものではない、というのは当然のことです。

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朝日を受けて染まる南極大陸です。印象的な形の二つのピークが淡いピンク色に染まっていく様子はなんとも言えない美しさでした。継時的な色彩の変化が美しかったので、この写真では何ものをも表現できてはいないわけですけれど、あまりに印象的な風景だったので、ここに静止画としてアップしました。

そもそも、あの世界のありようを包括的かつ適切に表現する言語を、おそらく人類は持たないと思います。


あの世界に流れる時間性や空間性、

空気の質感や風の匂い、

水面が氷河に触れる音、

そのどれか一つでも欠けてしまったその瞬間に、

そこで表現されたものは「南極らしきものに関するなにものか」として、

一気に陳腐なものと化してしまうだろうな、と思っています。


このブログのこの文章や写真がそうであるように。


では他にどんな表現方法がありうるのか?

その問いについては、僕にはちょっと答えが見当たりませし、正直想像もつきません。 


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左を南極大陸に挟まれたこの海峡(名前を忘れました。思い出し次第アップします)の美しさはまさに言語を超越していました。肌を切り裂くような冷たい空気、雲間から差し込む太陽、海に映り込む風景。そこをゆっくり進んでいくオーシャンダイアモンド号。全てが透明で神聖な感じさえします。

僕はこれから、世界を旅する中で、数多くの美しいものを見るだろうと思います。


けれど、あの雪と氷の大地以上に美しものを見ることは、今後多分ないだろうな、と

直感的に確信しています。


あの世界は地球上にありながら、地球上に存在するあらゆる世界の例外として存在する世界です。

うまく言えないんですけれど、

南極と地球上のどこかの絶景を比較して論じることは、

例えば「宇宙から見た地球の青さと、奄美大島の海の青さ、どっちがキレイ?」

みたいな、

度量衡が異なる次元に属する両者を比べてしまうような、とんちんかんなものにならざるを得ないだろうな、と思っています。

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こちらは夕日に染まっていく南極大陸です。南極の夕焼けは、本当に燃えるような色に空を染め上げていきます。世界にはこういう「赤」が存在するのか。というのが、(何の感想にもなっていない)感想でした。南極の自然の前では、すべての言語表現が稚拙になってしまいます。どんな作家的天才も、この美しさを表現するのは相当な困難を伴うはずだ。ずっとそんなことを考えていました。

とまぁ、結局のところ、僕が弄している贅言の数々も、

南極については何も語るところのない退屈なものになってしまうんですけど、


先にも書いたように、


「南極については、自分は何もかけない」


っていう告白以上に、説得力のある南極に関する表現の方法を僕は思いつかないので、


「書けない」ということをダラダラと書き続けたこの自己矛盾の文章と、

いくつかの印象的な(けれど実は南極について、ほとんど何ものをも語ってはいない)南極写真をここにアップすることで、


逆説的ではありますけれど、南極の素晴らしさの一部でもお伝えすることができればなぁと願っています。

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21日の早朝、船は無事ウシュアイアに帰港しました。その接岸の瞬間にも、僕がまだ見ない美しい風景が船窓に広がることになっていたとはいくら何でも想像できませんでした。本文中にも書きましたが「もうこれ以上の風景を見ることは叶わないだろう」「もうこれ以上の野生動物との素敵な遭遇はないだろう」っていう予想が、数時間単位で裏切られていくのが南極でした。でもこれが、正真正銘、最後の最後の息を飲む美しい風景です。

 


「現代では、何者かであることを拒否し続けない限り、容易に何者かにされてしまう。
そのために狂気が必要ならば、ぼくは喜んで受け入れることにしよう。
ー 鈴木健
鈴木 健
勁草書房
2013-01-28

上記はツイッターのTLに流れてきたもの。尊敬する独立研究者の森田真生さんが講演で、同じく尊敬する鈴木健さんの言葉を引いたものです。森田先生が引いた鈴木先生の言葉なので、罷り間違ってもおかしなものではないはず。安心して引用させていただきました。
おすぎです。

先日、出堀良一さん(カズさん)にお会いする機会を得ました。
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左が「カズさん」こと出堀良一さん。旅人ナイトにて。

1度目は「旅人ナイト」という、セブのゲストハウスのイベントで。
2度目はセブの居酒屋で。

出堀さん(→こちら)は現在7年半かけて自転車で世界一周中の方で、知る人ぞ知る、という方なんだそうですが、ぼくは寡聞にして存じ上げず。

カズさんがこれまで自転車で地球を走った距離は10万キロ。
すでに地球を2周半できる距離を移動されているとのこと。
そしてまだまだ旅の途中。僕がお会いしたフィリピンがちょうど100カ国目。
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カズさんの愛車。近くで見させていただいて写真撮らせていただいて、触らせていただきました。ええやろー。
事前の情報からは、とても寡黙でストイックなイメージの方なのかな、と想像していたのですが、
実際にお会いしてみるととても気さくで明るいお兄さんでした。

カズさんのお話は、本当に数々の至言に満ち溢れていて、もう感動しっぱなし。

地球に抱かれて生き、地球の懐深くで眠る旅人。

そんな方のお話が、僕たちの琴線に触れないわけはありません。

その全てをこの記事に書こうとするととんでもない長さになってしましますし、
そもそも僕の41歳の忘れっぽい脳は、その全てをメモリーできるような機能を持ち合わせていないので、
とっても印象に残ったお話をここに書いてみようと思います。

カズさんのお話の中で、僕の心に深く突き刺さったのが

冒険と無謀を履き違えてはいけない

というもの。

僕たちがテレビなどのメディアの情報から作り上げる冒険家のステレオタイプって
向こう見ずで危険を恐れない、
命知らずの勇敢な人たち。

といったあたりが関の山だと思うのですが、お話を伺っていて僕が思ったのは
「この人は徹頭徹尾、リアリストなんだ」
ということ。

7年半も日本に帰らず世界を自転車で旅している人がリアリスト?

灼熱の砂漠を何日もかけて横断(縦断)し、4000mオーバーの峠を1日に何座も走破して、
草原にテントを張り、深山幽谷に抱かれて眠るカズさんを、
現実世界とは少しかけ離れた世界の存在だと思うのはある意味自然なリアクションなのかもしれません。

そして僕たちの奔放な想像力がもたらしてくれる無限の空想の世界を、
現実世界に反映させて生きている人たちのことを「冒険家」と仮に呼ぶとするのなら、
冒険家がリアリストだっていうのは少し奇妙に聞こえるかもしれません。

けれどカズさん曰く
「冒険家は、周到な事前準備と綿密な計画に基づいて行動する。その計画の実行に当たってリスクをきちんと査定して、もし難しいと判断すれば計画を中止することも厭わない。冒険家に失敗は許されないからだ。」(かなり要約してますが、要旨は外してないはずです)

体一つと自転車で世界を旅するカズさんの冒険を可能ならしめているものは
「お金」でも
「地位」でも
「名声」でも
「他者からの羨望」でもなく

「今、それがしたいから」という素朴な欲求と、
「それを実行したとして、自分の体は大丈夫なんだろうか?」
という、身体という現実(と限界)をベースにした自己との対話であるということ。

「自分はここに行きたい。でもそれを実行に移したとして、果たして自分は生きていられるのか?」

全てのシミュレーションが自分自身の身体を基準に行われる。
こういう感覚で物事の実現可能性を査定する人を「リアリスト」と呼ばずになんと呼ぶのでしょう?

現代に生きる人々の多くは
「お金」とか
「地位」とか
「名誉」とか
「他者からの羨望」とか
「お隣さんがそうしているから」とか

僕たちの基礎的な身体的欲求を直接的には満たすことのないもの、
つまり「欲望」

を基準にして、その行動を決定してしまいます。
それがあたかも自分自身の行動に影響をあたえる、リアルで決定的なリスク要因であるかのように。

友達は偏差値60の第一志望の大学に合格したけど、自分は第二志望の大学しか受からなかったとか、
友達は結婚して、都心に立派な分譲マンションを購入したけど、自分はまだ独身で借家暮らしであるとか、
幼な馴染みのあいつはベ○ツに乗っているけど僕の車は軽自動車だ
っていう比較がもたらす劣等感は、
食欲を一時的に減退させてしまったりすることはあるのかもしれませんけど、
そのことと、「今この瞬間の判断を誤れば生命の危機に瀕する」という状況は根本的に違っていると思います。

「名誉」を失うことで「死ななければいけない」と考える人はいるかもしれませんが、
「飢え」が100%僕たちの身体を損ない、僕たちを死にいざなうのと違って、
名誉の喪失は、それがもたらす精神的・肉体的損失には極めて個人差があって、相対的であるという点で、「欲求」ではなく「欲望」の充足の失敗例の一つです。

でもそれが、時に自分の生き死にに関わってくると勘違いしてしまうくらい、(だから人はうつ病になるのかもしれないのですが)
僕たちは「欲望」という名の他者の視線の網の目に深く絡め取られています。

自分は人からどう思われているか?

欲望は常に他者の欲望を介することで自分の欲望として顕在化しますから、
(「人は他者の欲望を欲望する」byジャック・ラカン)
そこには必然的に「他者の目」を気にする自分が割り込んできます。

そしてもちろん、欲望は人間を人間たらしめている重要な要素の一つですから、
それを頭から否定したりするつもりは全くありません。

やっぱり人から「すごいねー」言われたら気分いいですし、
みんなが持っているものは、自分も欲しいと思ってしまいます。

けれどこの「欲求」と「欲望」の履き違いがもたらす多くの悲喜劇と
「みんなと同じでなければならない」という社会の空気にうんざりしていた僕にとって、
カズさんの生き方は、本当に魅力的に映ります。

とりわけ僕たち日本人は、しばしば「周囲がそうしているから」という、
なんの理由にもなっていない理由で、ある人の行動をコントロールし
「みんなとちょっと違うことをしている」という、
実はなんの理由にもなっていない理由で容易に人を差別し、
「どうして人と同じようにできないのか?」という問いが、
ほとんど何も問うていないことに気づかないままその言葉を投げつけて、人を傷つけます。

それで傷つく人がいるということにすら想像が及ばないくらい、無自覚的に。


日本を覆い、日本人の行動を深く規定する「空気」の正体を鋭く描いた問題作。日本人として耳の痛い話が満載の、読んで目から鱗が落ちる名著です。

けれどそれが「みんながそうであるから」っていう
「多数派であることそのものがもたらす正義」に基づくマジョリティの臆断だと気がついた時、
僕を追いかけ回してきた「正義」という名前で呼ばれているなにものかって、
実は欲望のような実体のないものなんだと気付き、自分の中で、何かが大きな音を立てて弾けたように思いました。

これはカズさんのおかげであり、クロスロードのおかげであり、そこで出会ったたくさんの仲間のおかげです。

「欲望」や「同調圧力」が僕たちに求める振る舞いを無自覚的に忠実にトレースする生き方と、
「身体」や「自己」との対話を通じて、自分自身の身体の声に耳を傾け、自分自身であり続けることを中心に据えた生き方と。

どちらが現実で、どちらが非現実やったんやろう?

カズさんのような、徹底的なリアリストのお話を伺っていると、その境界線が緩やかに溶解していく感覚に包まれていきます。

空想的に生きる人ほど、実は徹底的なリアリストなんだ。

そして願わくは、僕もそんな空想的リアリストの一人でありたい。

カズさんのように現実と空想の振れ幅が大きな人は、リアルな世界を冷酷なくらい峻厳に査定しながら判断し、行動します。

冒険を、ただの無謀で終わらせないために。

カズさんはそう教えてくれました。

僕はカズさんの足下にすら及ばないような人間ですが、それでも、
世の中の大多数の人々が「正しい」として疑わない現実が、
実は欲望を軸に構成された虚構の産物なのかもしれない、ということを疑うだけのリアリズムは持ち合わせている
つもりです。

カズさんの持つ徹底的なリアリズムからすれば、まだまだリアルと空想の境界線を行き来している赤ん坊のような現実認識かもしれないけれど、
この世界を少しだけ、違った角度から眺められる喜びは、この先の人生で大きな意味を持つことになるかもしれない。
そんな淡い期待に膨らませています。

僕は確かに少し変わった人間で、世間一般の人とは違いますし、
日本人一般が考えるような価値からは少しずれたところで生きてきたのかもしれません。

みんながいいと思うものが好きになれない。

そのことに対するコンプレックスは、
僕を41年間ずっと苦しめ続けてきたもので、簡単には癒えることはないのかもしれません。

けれど、自分が現実だと信じて疑わなかった世界を飛び出し、
自分の体一つで世界を旅して回る身になった今、

なにものかであることを、常に他者から求められ続けてきたこれまでの人生がある種のフィクションで、
自分がなにものであるのかを、自分自身で決定しながら毎日を過ごす、旅人としての今の自分がリアルな自分なのかもしれない。
そう思っています。

それは社会的な人たちからすればある種の狂気に映る振る舞いなのかもしれないけれど、
自分が自分である、ということを常にしっかりと確かめながらこの時間を生きることのできる、
自分の両足でしっかりと足元の大地を踏みしめていることを確かめられる、
贅沢な瞬間の連続であるような気がしているのです。

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シドニー大聖堂。ハイド・パークの東側正面に位置しています。

今僕は、2ヶ月半過ごしたフィリピンのセブ島を後にして、
夏真っ只中のシドニーで、このブログを書いています。

シドニーの、抜けるように澄んだ青空と、サーキュラー・キーからハイド・パークに向けて緩やかに下る坂道を吹き上がってくる心地よい風を感じている僕と、
ソーシャルワーカーとして、何者かになるよう求められていながらその何者かになることができず、いつも苦しんでいた自分と。

願わくは、シドニーの夕陽がオペラハウスを真っ赤に染め上げているこの瞬間を目に焼き付けている今の自分が、リアルな自分であってほしい。
それが仮に、ある種の狂気であったとしても。

なんのてらいもためらいもなく、今は心からそう願っています。 
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おすぎです。

世界一周に向けて、フィリピンの語学学校「cross x road」で英語の勉強をしています。
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再び、学校の周りをいつもパトロールしているにゃんこに登場してもらいました。今回はカメラ目線バージョンです。

今日は語学学校の卒業式の日。長かったフィリピン生活に終わりを告げて、
いよいよ世界一周に旅立つ日が目の前に迫ってきました。

以前のブログ(こちら)でもご紹介した通り、僕の次の目的地はオーストラリアで、ここを発つのは16日月曜日。
セブ最大のお祭り「シヌログ祭り」に参加した後、オーストラリアのエアーズロック、ゴールドコーストに向かって出発する予定です。

先日風邪をひいて病床に伏せっていた時、いくつかの航空券や主要な観光地で宿泊するバッパーの予約を行なっていました。

いよいよこの学校ともお別れか・・・と思うと、旅立ちの喜びよりも寂しさの方が勝ってしまい、
どうにもやりきれなかったです。

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booking.com とskyscaner 今回の旅で大活躍の二つのサイト。

それにしてもインターネットの利便性には本当にいつも驚かされます。

そして世界は「移動すること」に対して本当に開かれている、つくづく思います。

ヒトやモノや情報が高速で移動する現代の世界は、おそらくそれを可能にしたテクノロジーが目的としていたのとはうらはらに、僕たちを疲弊させ、疎外します。

けれど旅人として見知らぬ土地を訪れる時、僕たちはほんの少しだけ、
すべての経験が新鮮で眩しく輝いていた子供の頃に戻ることができますし、
僕たちを傷つけ、損なってきたいろんなしがらみから少しだけ自由になることができます。

僕たち人類の祖先がグレートジャーニに出た遥か太古の昔から、
移動することと、そこにとどまり続けることの間で葛藤し続けてきた存在を人間というのなら、

二つの選択肢の狭間で常に引き裂かれてあることは、
もしかすると僕たちに宿命づけられた本性の一つなのかもしれません。

そう考えると、常に葛藤の間にあって自問自答し続ける自分や、その葛藤がもたらす成熟も、
かけがえのない経験の一つとして、受け入れられるような気がします。

そしてそんな葛藤がもたらす苦しみが、何かかけがえのないものなのかもしれない、
っていうこと僕たちはきっと共有しているから、
時にそれがたとえ苦しかったり辛いものであったとしても、
どこか遠い見ず知らずの場所に行きたいと願う衝動を、抑えることができないのかもしれません。

世界は移動を拒んではいない」のですから。

メメントモリ・ジャーニー
メレ山 メレ子
亜紀書房
2016-08-26

著者であるメレ山メレ子さんのウェブマガジンを書籍化したもの。数多ある旅関係の本の中で間違いなく最高の一冊だと思っています。
『世界は移動を拒んではいない』は名文で、思わずくらいうるうるしてしまいます。日本脱出直前の11月3日、同じく泣かずにはいられない名文が満載の『断片的なものの社会学』の岸政彦先生との対談を聞きに、京都まで行ってしまう程好きです。

そしてここクロスロードはあくまでぼくの旅の目的地の一つであり、終着点。

あまり感傷的にばかりなってもいられないので、(にしても寂しいなぁ)
まだ見ぬ世界の絶景や、素敵なbuddyとの出会いや邂逅を夢見つつ、

「フィリピン語学留学④ 学習編」に行ってみたいと思います。

 ◆留学前の事前学習
事前学習は留学に際して、できるだけきちんとしておいた方がいい。これは自信を持って断言することができます。
そして、クロスロードを選んで良かったなぁとつくづく思った理由の一つが、
「留学までの2週間ごとのセッション」でした。

スカイプなどのテレビ電話を使って、スタッフさんが事前学習の進捗状況を確認してくださいます。

その時に使ったのがこちらの書籍。 


中学3年生までの英文法を使った英作文をひたすらこなす、っていう趣旨の本です。

これは本当にオススメで、この本を一冊終わらせるのと終わらせないのとでは、留学の成果がかなり違ってくるんじゃないかな?と思っています。

もちろん、最後までできなかった方へのフォローの手段もきちんと用意されていて、
先の「文法クラス」はこの本を使用して授業を行います。

なんで中3までの文法やねん。

そう思われる方もいるとは思いますが、「日常会話の90%以上は中3までの英文法でどうにかなる」っていうのは自分の実感でもあり、本書の意図するところでもあるのだろうと思っています。
かなり高度で抽象的なトピックも、中3までの英文法で十分に扱えます。

あとは文法ではなく語彙力の問題になって来ます。

繰り返しになりますが、抽象的なトピックを論じるときでさえ、英語話者が使っているグラマーは90%以上が日本の中学3年生までの英文法。(中学英文法がカバーできてないのは「仮定法」くらいじゃないでしょうか?)

これって結構福音だと思いませんか?

僕はこのテキストを、留学までに一冊暗記してしまうくらいまでやり込みました。
付属のCDで発音のチェックもしました。

おかげで、初日から本当にスムーズに授業に入っていくことができました。

これは、定期的なスカイプセッション(僕はライン使ってたけど)のおかげで、
あれがないとすぐ怠けていたと思います。

もちろん、留学予定のない方も、会話力という点を重視するなら、この本を用いた学習はとても効果的だと思います。

なるほど、よく売れているのも頷けます。


◆SEP(Speak English Policy)のこと
フィリピンの語学学校の中には、Speak English Policy、つまり英語以外の言語を学校内で使ってはいけない、という規則を設けている学校が結構あるようです。

僕がいるCross x Road は日本語オッケーの学校で、
個人的には、母国語で深い話をできる仲間が周りにいないっていうのは、結構ストレスフルな環境だと思います。

ビジネスで普段から英語を使用している方が、英語力のブラッシュアップを求めて留学されているっていうケースや、
とにかくもう日本が嫌で、日本語を聞くのも見るのも嫌、という方なら、そういうストイックな環境に身を置くのもありかもしれません。

でも、「日本語話せない」って、結構ストレス溜まるんです。

それに僕たちは望むと望まざるとにかかわらず、とても深く「母国語」という蜘蛛の巣に絡め取られています。

そして、

そこまで一生懸命自分の国の言語を遠ざけなければならない環境って、
それがどれだけ価値があったりお金が儲かったりするものだったとしても、
なんだか寂しくないですか?


人は必要に迫られればどんな状況でだってコミュニケーションをとりますし、
必要とあればどんな状況であれ自ら主体的に英語を話さざるを得ない環境を選択し、英語を話す機会を増やしていくと思います。

他人に強制されなくとも。

僕はこちらに来て2ヶ月以上経ちますが、英語が話せるようになればなるほど、
日本語話者としての自分を誇れるようになって来ました。

それは本当に素晴らしいことだと思っているので、

日本語を恣意的に遠ざけることで得られる利益や環境というのは
なんだか少し不自然で、歪んだものであらざるを得ないんじゃないかと邪推してしまいます。


名著です。あまり多くを語る必要なし。とりあえず読んでほしいです。

ある言語の使用を意図的に禁止したり推奨したりするのは、
実は植民地支配などの暴力的な歴史と密接に関係している、
っていうのが(たぶん)世界史が教えてくれている事実で、
それだけ言語運用の抑圧や恣意的な操作は、意識的にも無意識的にも、ある種の暴力性を帯びてしまうっていう事実に、グローバリゼーション祭り状態の日本人のみなさんはもう少しだけ敏感になってもいいんじゃない?と、個人的には思っています。

→英語と植民地支配の暴力的な関係性を鋭く指摘している、内田樹先生のブログはこちら

→合わせて「母語を大切にすることの意味」についての内田樹先生のブログは
こちら。
(少し悲観的な例としてフィリピンの国語施策が挙がっていますが、フィリピンに限らないことです)

私見ですけど、英語を学ぶことの本当の意味って、

母国語以外の言語が私たちに与えてくれるものの見方、考え方を理解し、

私が容易に理解することのできない言語を操る他者とさえ、私はコミュニケーションをとることができるっていう、人間を他の霊長類と分かつところの能力を賦活することを通じて、

私たち自身の生きる世界を、色鮮やかで奥行きの深い世界へと再構築するための、もっとも手近で有意義な営みなんではないかと思っています。

そういうのを踏まえたSEPなら、どんどん推奨すべきだと思うんですけど、
徴するに、どうもそうではないような感じがしてます。(個人の感想です)

僕はもうすぐここを卒業して、世界を周る旅に出ますけど、
願わくは一人でもたくさんの人がここにきて、英語を話す「楽しさ」だけでなく、
日本語の持つ美しい響きや情緒、そして日本という国の有する多種多様な側面に気づく
きっかけの一つを持って帰ってくださればなぁと思います。

自分自身のことが、純粋な自己との対話だけで完全に理解できないのと同じように、

僕たちが暮らし、僕たちを強く規定している日本という国と日本語という言語もまた、

その真髄に触れるためにはどうしても、それとは全く相容れない別の言語環境、別の価値体系の中に身を置く必要がある。

そういうのは必要ないっていう方も当然たくさんいらっしゃるんでしょうけれど、

「今私が生きている世界はこんなに素晴らしい」

という気づきが、多彩な言語運用能力によってもたらされるっていうことは
夏目漱石、森鴎外、永井荷風のように、多くの優れた文学作品を残した小説家が、極めて高度なバイリンガル・トライリンガルだったことからも容易に想像がつきますし、
(特に漢詩の素養は、僕にとってはとても羨ましい)

断腸亭日乗とか、ほんまたまらんです。こういうの読んでると、あぁ日本人で本当に良かったなぁと思います。あと村上春樹ね。

自分たちが生きている世界がほんの少しだけ色鮮やかで奥行きのあるものだと気づくことから得られる価値は、僕たちに無限の喜びを与えてくれる、っていうことを、今の自分は信じて疑いません。

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