「現代では、何者かであることを拒否し続けない限り、容易に何者かにされてしまう。
そのために狂気が必要ならば、ぼくは喜んで受け入れることにしよう。
ー 鈴木健
鈴木 健
勁草書房
2013-01-28

上記はツイッターのTLに流れてきたもの。尊敬する独立研究者の森田真生さんが講演で、同じく尊敬する鈴木健さんの言葉を引いたものです。森田先生が引いた鈴木先生の言葉なので、罷り間違ってもおかしなものではないはず。安心して引用させていただきました。
おすぎです。

先日、出堀良一さん(カズさん)にお会いする機会を得ました。
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左が「カズさん」こと出堀良一さん。旅人ナイトにて。

1度目は「旅人ナイト」という、セブのゲストハウスのイベントで。
2度目はセブの居酒屋で。

出堀さん(→こちら)は現在7年半かけて自転車で世界一周中の方で、知る人ぞ知る、という方なんだそうですが、ぼくは寡聞にして存じ上げず。

カズさんがこれまで自転車で地球を走った距離は10万キロ。
すでに地球を2周半できる距離を移動されているとのこと。
そしてまだまだ旅の途中。僕がお会いしたフィリピンがちょうど100カ国目。
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カズさんの愛車。近くで見させていただいて写真撮らせていただいて、触らせていただきました。ええやろー。
事前の情報からは、とても寡黙でストイックなイメージの方なのかな、と想像していたのですが、
実際にお会いしてみるととても気さくで明るいお兄さんでした。

カズさんのお話は、本当に数々の至言に満ち溢れていて、もう感動しっぱなし。

地球に抱かれて生き、地球の懐深くで眠る旅人。

そんな方のお話が、僕たちの琴線に触れないわけはありません。

その全てをこの記事に書こうとするととんでもない長さになってしましますし、
そもそも僕の41歳の忘れっぽい脳は、その全てをメモリーできるような機能を持ち合わせていないので、
とっても印象に残ったお話をここに書いてみようと思います。

カズさんのお話の中で、僕の心に深く突き刺さったのが

冒険と無謀を履き違えてはいけない

というもの。

僕たちがテレビなどのメディアの情報から作り上げる冒険家のステレオタイプって
向こう見ずで危険を恐れない、
命知らずの勇敢な人たち。

といったあたりが関の山だと思うのですが、お話を伺っていて僕が思ったのは
「この人は徹頭徹尾、リアリストなんだ」
ということ。

7年半も日本に帰らず世界を自転車で旅している人がリアリスト?

灼熱の砂漠を何日もかけて横断(縦断)し、4000mオーバーの峠を1日に何座も走破して、
草原にテントを張り、深山幽谷に抱かれて眠るカズさんを、
現実世界とは少しかけ離れた世界の存在だと思うのはある意味自然なリアクションなのかもしれません。

そして僕たちの奔放な想像力がもたらしてくれる無限の空想の世界を、
現実世界に反映させて生きている人たちのことを「冒険家」と仮に呼ぶとするのなら、
冒険家がリアリストだっていうのは少し奇妙に聞こえるかもしれません。

けれどカズさん曰く
「冒険家は、周到な事前準備と綿密な計画に基づいて行動する。その計画の実行に当たってリスクをきちんと査定して、もし難しいと判断すれば計画を中止することも厭わない。冒険家に失敗は許されないからだ。」(かなり要約してますが、要旨は外してないはずです)

体一つと自転車で世界を旅するカズさんの冒険を可能ならしめているものは
「お金」でも
「地位」でも
「名声」でも
「他者からの羨望」でもなく

「今、それがしたいから」という素朴な欲求と、
「それを実行したとして、自分の体は大丈夫なんだろうか?」
という、身体という現実(と限界)をベースにした自己との対話であるということ。

「自分はここに行きたい。でもそれを実行に移したとして、果たして自分は生きていられるのか?」

全てのシミュレーションが自分自身の身体を基準に行われる。
こういう感覚で物事の実現可能性を査定する人を「リアリスト」と呼ばずになんと呼ぶのでしょう?

現代に生きる人々の多くは
「お金」とか
「地位」とか
「名誉」とか
「他者からの羨望」とか
「お隣さんがそうしているから」とか

僕たちの基礎的な身体的欲求を直接的には満たすことのないもの、
つまり「欲望」

を基準にして、その行動を決定してしまいます。
それがあたかも自分自身の行動に影響をあたえる、リアルで決定的なリスク要因であるかのように。

友達は偏差値60の第一志望の大学に合格したけど、自分は第二志望の大学しか受からなかったとか、
友達は結婚して、都心に立派な分譲マンションを購入したけど、自分はまだ独身で借家暮らしであるとか、
幼な馴染みのあいつはベ○ツに乗っているけど僕の車は軽自動車だ
っていう比較がもたらす劣等感は、
食欲を一時的に減退させてしまったりすることはあるのかもしれませんけど、
そのことと、「今この瞬間の判断を誤れば生命の危機に瀕する」という状況は根本的に違っていると思います。

「名誉」を失うことで「死ななければいけない」と考える人はいるかもしれませんが、
「飢え」が100%僕たちの身体を損ない、僕たちを死にいざなうのと違って、
名誉の喪失は、それがもたらす精神的・肉体的損失には極めて個人差があって、相対的であるという点で、「欲求」ではなく「欲望」の充足の失敗例の一つです。

でもそれが、時に自分の生き死にに関わってくると勘違いしてしまうくらい、(だから人はうつ病になるのかもしれないのですが)
僕たちは「欲望」という名の他者の視線の網の目に深く絡め取られています。

自分は人からどう思われているか?

欲望は常に他者の欲望を介することで自分の欲望として顕在化しますから、
(「人は他者の欲望を欲望する」byジャック・ラカン)
そこには必然的に「他者の目」を気にする自分が割り込んできます。

そしてもちろん、欲望は人間を人間たらしめている重要な要素の一つですから、
それを頭から否定したりするつもりは全くありません。

やっぱり人から「すごいねー」言われたら気分いいですし、
みんなが持っているものは、自分も欲しいと思ってしまいます。

けれどこの「欲求」と「欲望」の履き違いがもたらす多くの悲喜劇と
「みんなと同じでなければならない」という社会の空気にうんざりしていた僕にとって、
カズさんの生き方は、本当に魅力的に映ります。

とりわけ僕たち日本人は、しばしば「周囲がそうしているから」という、
なんの理由にもなっていない理由で、ある人の行動をコントロールし
「みんなとちょっと違うことをしている」という、
実はなんの理由にもなっていない理由で容易に人を差別し、
「どうして人と同じようにできないのか?」という問いが、
ほとんど何も問うていないことに気づかないままその言葉を投げつけて、人を傷つけます。

それで傷つく人がいるということにすら想像が及ばないくらい、無自覚的に。


日本を覆い、日本人の行動を深く規定する「空気」の正体を鋭く描いた問題作。日本人として耳の痛い話が満載の、読んで目から鱗が落ちる名著です。

けれどそれが「みんながそうであるから」っていう
「多数派であることそのものがもたらす正義」に基づくマジョリティの臆断だと気がついた時、
僕を追いかけ回してきた「正義」という名前で呼ばれているなにものかって、
実は欲望のような実体のないものなんだと気付き、自分の中で、何かが大きな音を立てて弾けたように思いました。

これはカズさんのおかげであり、クロスロードのおかげであり、そこで出会ったたくさんの仲間のおかげです。

「欲望」や「同調圧力」が僕たちに求める振る舞いを無自覚的に忠実にトレースする生き方と、
「身体」や「自己」との対話を通じて、自分自身の身体の声に耳を傾け、自分自身であり続けることを中心に据えた生き方と。

どちらが現実で、どちらが非現実やったんやろう?

カズさんのような、徹底的なリアリストのお話を伺っていると、その境界線が緩やかに溶解していく感覚に包まれていきます。

空想的に生きる人ほど、実は徹底的なリアリストなんだ。

そして願わくは、僕もそんな空想的リアリストの一人でありたい。

カズさんのように現実と空想の振れ幅が大きな人は、リアルな世界を冷酷なくらい峻厳に査定しながら判断し、行動します。

冒険を、ただの無謀で終わらせないために。

カズさんはそう教えてくれました。

僕はカズさんの足下にすら及ばないような人間ですが、それでも、
世の中の大多数の人々が「正しい」として疑わない現実が、
実は欲望を軸に構成された虚構の産物なのかもしれない、ということを疑うだけのリアリズムは持ち合わせている
つもりです。

カズさんの持つ徹底的なリアリズムからすれば、まだまだリアルと空想の境界線を行き来している赤ん坊のような現実認識かもしれないけれど、
この世界を少しだけ、違った角度から眺められる喜びは、この先の人生で大きな意味を持つことになるかもしれない。
そんな淡い期待に膨らませています。

僕は確かに少し変わった人間で、世間一般の人とは違いますし、
日本人一般が考えるような価値からは少しずれたところで生きてきたのかもしれません。

みんながいいと思うものが好きになれない。

そのことに対するコンプレックスは、
僕を41年間ずっと苦しめ続けてきたもので、簡単には癒えることはないのかもしれません。

けれど、自分が現実だと信じて疑わなかった世界を飛び出し、
自分の体一つで世界を旅して回る身になった今、

なにものかであることを、常に他者から求められ続けてきたこれまでの人生がある種のフィクションで、
自分がなにものであるのかを、自分自身で決定しながら毎日を過ごす、旅人としての今の自分がリアルな自分なのかもしれない。
そう思っています。

それは社会的な人たちからすればある種の狂気に映る振る舞いなのかもしれないけれど、
自分が自分である、ということを常にしっかりと確かめながらこの時間を生きることのできる、
自分の両足でしっかりと足元の大地を踏みしめていることを確かめられる、
贅沢な瞬間の連続であるような気がしているのです。

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シドニー大聖堂。ハイド・パークの東側正面に位置しています。

今僕は、2ヶ月半過ごしたフィリピンのセブ島を後にして、
夏真っ只中のシドニーで、このブログを書いています。

シドニーの、抜けるように澄んだ青空と、サーキュラー・キーからハイド・パークに向けて緩やかに下る坂道を吹き上がってくる心地よい風を感じている僕と、
ソーシャルワーカーとして、何者かになるよう求められていながらその何者かになることができず、いつも苦しんでいた自分と。

願わくは、シドニーの夕陽がオペラハウスを真っ赤に染め上げているこの瞬間を目に焼き付けている今の自分が、リアルな自分であってほしい。
それが仮に、ある種の狂気であったとしても。

なんのてらいもためらいもなく、今は心からそう願っています。 
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おすぎです。

世界一周に向けて、フィリピンの語学学校「cross x road」で英語の勉強をしています。
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再び、学校の周りをいつもパトロールしているにゃんこに登場してもらいました。今回はカメラ目線バージョンです。

今日は語学学校の卒業式の日。長かったフィリピン生活に終わりを告げて、
いよいよ世界一周に旅立つ日が目の前に迫ってきました。

以前のブログ(こちら)でもご紹介した通り、僕の次の目的地はオーストラリアで、ここを発つのは16日月曜日。
セブ最大のお祭り「シヌログ祭り」に参加した後、オーストラリアのエアーズロック、ゴールドコーストに向かって出発する予定です。

先日風邪をひいて病床に伏せっていた時、いくつかの航空券や主要な観光地で宿泊するバッパーの予約を行なっていました。

いよいよこの学校ともお別れか・・・と思うと、旅立ちの喜びよりも寂しさの方が勝ってしまい、
どうにもやりきれなかったです。

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booking.com とskyscaner 今回の旅で大活躍の二つのサイト。

それにしてもインターネットの利便性には本当にいつも驚かされます。

そして世界は「移動すること」に対して本当に開かれている、つくづく思います。

ヒトやモノや情報が高速で移動する現代の世界は、おそらくそれを可能にしたテクノロジーが目的としていたのとはうらはらに、僕たちを疲弊させ、疎外します。

けれど旅人として見知らぬ土地を訪れる時、僕たちはほんの少しだけ、
すべての経験が新鮮で眩しく輝いていた子供の頃に戻ることができますし、
僕たちを傷つけ、損なってきたいろんなしがらみから少しだけ自由になることができます。

僕たち人類の祖先がグレートジャーニに出た遥か太古の昔から、
移動することと、そこにとどまり続けることの間で葛藤し続けてきた存在を人間というのなら、

二つの選択肢の狭間で常に引き裂かれてあることは、
もしかすると僕たちに宿命づけられた本性の一つなのかもしれません。

そう考えると、常に葛藤の間にあって自問自答し続ける自分や、その葛藤がもたらす成熟も、
かけがえのない経験の一つとして、受け入れられるような気がします。

そしてそんな葛藤がもたらす苦しみが、何かかけがえのないものなのかもしれない、
っていうこと僕たちはきっと共有しているから、
時にそれがたとえ苦しかったり辛いものであったとしても、
どこか遠い見ず知らずの場所に行きたいと願う衝動を、抑えることができないのかもしれません。

世界は移動を拒んではいない」のですから。

メメントモリ・ジャーニー
メレ山 メレ子
亜紀書房
2016-08-26

著者であるメレ山メレ子さんのウェブマガジンを書籍化したもの。数多ある旅関係の本の中で間違いなく最高の一冊だと思っています。
『世界は移動を拒んではいない』は名文で、思わずくらいうるうるしてしまいます。日本脱出直前の11月3日、同じく泣かずにはいられない名文が満載の『断片的なものの社会学』の岸政彦先生との対談を聞きに、京都まで行ってしまう程好きです。

そしてここクロスロードはあくまでぼくの旅の目的地の一つであり、終着点。

あまり感傷的にばかりなってもいられないので、(にしても寂しいなぁ)
まだ見ぬ世界の絶景や、素敵なbuddyとの出会いや邂逅を夢見つつ、

「フィリピン語学留学④ 学習編」に行ってみたいと思います。

 ◆留学前の事前学習
事前学習は留学に際して、できるだけきちんとしておいた方がいい。これは自信を持って断言することができます。
そして、クロスロードを選んで良かったなぁとつくづく思った理由の一つが、
「留学までの2週間ごとのセッション」でした。

スカイプなどのテレビ電話を使って、スタッフさんが事前学習の進捗状況を確認してくださいます。

その時に使ったのがこちらの書籍。 


中学3年生までの英文法を使った英作文をひたすらこなす、っていう趣旨の本です。

これは本当にオススメで、この本を一冊終わらせるのと終わらせないのとでは、留学の成果がかなり違ってくるんじゃないかな?と思っています。

もちろん、最後までできなかった方へのフォローの手段もきちんと用意されていて、
先の「文法クラス」はこの本を使用して授業を行います。

なんで中3までの文法やねん。

そう思われる方もいるとは思いますが、「日常会話の90%以上は中3までの英文法でどうにかなる」っていうのは自分の実感でもあり、本書の意図するところでもあるのだろうと思っています。
かなり高度で抽象的なトピックも、中3までの英文法で十分に扱えます。

あとは文法ではなく語彙力の問題になって来ます。

繰り返しになりますが、抽象的なトピックを論じるときでさえ、英語話者が使っているグラマーは90%以上が日本の中学3年生までの英文法。(中学英文法がカバーできてないのは「仮定法」くらいじゃないでしょうか?)

これって結構福音だと思いませんか?

僕はこのテキストを、留学までに一冊暗記してしまうくらいまでやり込みました。
付属のCDで発音のチェックもしました。

おかげで、初日から本当にスムーズに授業に入っていくことができました。

これは、定期的なスカイプセッション(僕はライン使ってたけど)のおかげで、
あれがないとすぐ怠けていたと思います。

もちろん、留学予定のない方も、会話力という点を重視するなら、この本を用いた学習はとても効果的だと思います。

なるほど、よく売れているのも頷けます。


◆SEP(Speak English Policy)のこと
フィリピンの語学学校の中には、Speak English Policy、つまり英語以外の言語を学校内で使ってはいけない、という規則を設けている学校が結構あるようです。

僕がいるCross x Road は日本語オッケーの学校で、
個人的には、母国語で深い話をできる仲間が周りにいないっていうのは、結構ストレスフルな環境だと思います。

ビジネスで普段から英語を使用している方が、英語力のブラッシュアップを求めて留学されているっていうケースや、
とにかくもう日本が嫌で、日本語を聞くのも見るのも嫌、という方なら、そういうストイックな環境に身を置くのもありかもしれません。

でも、「日本語話せない」って、結構ストレス溜まるんです。

それに僕たちは望むと望まざるとにかかわらず、とても深く「母国語」という蜘蛛の巣に絡め取られています。

そして、

そこまで一生懸命自分の国の言語を遠ざけなければならない環境って、
それがどれだけ価値があったりお金が儲かったりするものだったとしても、
なんだか寂しくないですか?


人は必要に迫られればどんな状況でだってコミュニケーションをとりますし、
必要とあればどんな状況であれ自ら主体的に英語を話さざるを得ない環境を選択し、英語を話す機会を増やしていくと思います。

他人に強制されなくとも。

僕はこちらに来て2ヶ月以上経ちますが、英語が話せるようになればなるほど、
日本語話者としての自分を誇れるようになって来ました。

それは本当に素晴らしいことだと思っているので、

日本語を恣意的に遠ざけることで得られる利益や環境というのは
なんだか少し不自然で、歪んだものであらざるを得ないんじゃないかと邪推してしまいます。


名著です。あまり多くを語る必要なし。とりあえず読んでほしいです。

ある言語の使用を意図的に禁止したり推奨したりするのは、
実は植民地支配などの暴力的な歴史と密接に関係している、
っていうのが(たぶん)世界史が教えてくれている事実で、
それだけ言語運用の抑圧や恣意的な操作は、意識的にも無意識的にも、ある種の暴力性を帯びてしまうっていう事実に、グローバリゼーション祭り状態の日本人のみなさんはもう少しだけ敏感になってもいいんじゃない?と、個人的には思っています。

→英語と植民地支配の暴力的な関係性を鋭く指摘している、内田樹先生のブログはこちら

→合わせて「母語を大切にすることの意味」についての内田樹先生のブログは
こちら。
(少し悲観的な例としてフィリピンの国語施策が挙がっていますが、フィリピンに限らないことです)

私見ですけど、英語を学ぶことの本当の意味って、

母国語以外の言語が私たちに与えてくれるものの見方、考え方を理解し、

私が容易に理解することのできない言語を操る他者とさえ、私はコミュニケーションをとることができるっていう、人間を他の霊長類と分かつところの能力を賦活することを通じて、

私たち自身の生きる世界を、色鮮やかで奥行きの深い世界へと再構築するための、もっとも手近で有意義な営みなんではないかと思っています。

そういうのを踏まえたSEPなら、どんどん推奨すべきだと思うんですけど、
徴するに、どうもそうではないような感じがしてます。(個人の感想です)

僕はもうすぐここを卒業して、世界を周る旅に出ますけど、
願わくは一人でもたくさんの人がここにきて、英語を話す「楽しさ」だけでなく、
日本語の持つ美しい響きや情緒、そして日本という国の有する多種多様な側面に気づく
きっかけの一つを持って帰ってくださればなぁと思います。

自分自身のことが、純粋な自己との対話だけで完全に理解できないのと同じように、

僕たちが暮らし、僕たちを強く規定している日本という国と日本語という言語もまた、

その真髄に触れるためにはどうしても、それとは全く相容れない別の言語環境、別の価値体系の中に身を置く必要がある。

そういうのは必要ないっていう方も当然たくさんいらっしゃるんでしょうけれど、

「今私が生きている世界はこんなに素晴らしい」

という気づきが、多彩な言語運用能力によってもたらされるっていうことは
夏目漱石、森鴎外、永井荷風のように、多くの優れた文学作品を残した小説家が、極めて高度なバイリンガル・トライリンガルだったことからも容易に想像がつきますし、
(特に漢詩の素養は、僕にとってはとても羨ましい)

断腸亭日乗とか、ほんまたまらんです。こういうの読んでると、あぁ日本人で本当に良かったなぁと思います。あと村上春樹ね。

自分たちが生きている世界がほんの少しだけ色鮮やかで奥行きのあるものだと気づくことから得られる価値は、僕たちに無限の喜びを与えてくれる、っていうことを、今の自分は信じて疑いません。

おすぎです。

今、世界一周に向けて、フィリピンの語学学校「cross x road」で英語の勉強をしています。
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再び登場していただきました。今回はカメラ目線いただいてます。

一昨日お約束した通り、今日は僕がどんな授業を受けているのか?について、具体的に書いていこうと思います。

というのも、僕が真剣にフィリピン留学を検討し始めた時に一番知りたかったのがこの
「一体どんな授業受けられるん?」ということで、
それ以外に僕が知りたかったことの多くは大体情報としてネットに転がってるか、
字で読んでも仕方ない、実際に行ってみないとわからないよな、
というものばかりだったからです。

内容的に、どうしてもくどくなりがちなトピックですけど、
できる限り詳細に、実例も交えつつ書いていきたいと思います。

【授業のこと(各論)】

僕が受けているのは1日6時間のレッスンで

① pronunciation=2時間
② カランメソッド=2時間
③ Practical English=2時間
④ 週末の「スピーチクラス」

の4つに分けられます。

④の「スピーチクラス」は任意受講ですので、必ずしも受講する必要はないんですが、
総合的な英語力を上げるには一番効果的だっていうお話をマネージャーさんから伺っていたので、
バッチメイトが卒業した後の「バッチロス」(←バッチメイトがいなくなった後の寂しさを表す、僕の造語です)を埋めるために、毎週参加するようになりました。

一番大変でしたが、継続して本当に良かったと思っています。

①pronunciation(発音)

は読んで字のごとく、発音の矯正クラスです。

僕に関していえば、「矯正」という言葉が一番しっくりくるくらい、入学当初の発音はひどいものでした。

この発音クラスは容姿も発音も美しい、明るい女性の先生が担当してくれているのですが、
正直な話、見かけによらず結構スパルタです。
ただ、根が気さくな先生なので、スパルタ授業にも関わらず悲壮感が全くなく
先生:「じゃー今日うまく発音できなかったところ全部宿題にしとくから、明日までに録音しておいて聴かせてねー、おすぎさん!」
僕:「オッケー!ノープロブレム!」
みたいな感じで軽いノリのまま、後で後悔することになります。

当初はベタな日本人英語話者の特徴である[l](エル)と[r](アール)の発音ができず(今も完璧ではないですけど)、1時間ひたすら舌を巻きまくるっていう経験を何度かして、舌を巻いて話す習慣のない国に行きたい(日本に帰りたい)と真剣に思ってました。

もちろん、今ではあのハードなレッスンにとても感謝しています。

これは8週間経過後の、リーディングの宿題を録音した音源です。
  

恥ずかしいんですが、ここに来て最初の録音に録音した宿題の音源もアップしておきます。
 
恥ずかしー。

②カランメソッド
これについては、ちょっと馴染みのないものだと思われるので、説明が必要かもしれません。
これは「カラン・メソッド」という独特の英語学習法を用いたレッスンで、
よく、アスリートの「筋トレ」に例えられます。
先生と、テキストに沿って、ひたすら単純な英語のセンテンスを用いた問答を繰り返し続けるというもの。

【例】
先生:What are you doing now? What are you doing now?(質問2回)
生徒:I am studying English. I am studying English.(回答2回)
(役割交代)
生徒:What are you doing now? What are you doing now?(質問2回)
先生:I am teaching English now. I am teaching English now.(回答2回)
(役割交代)
先生:What are you doing now?(質問1回)
生徒:I am studying English now.(回答1回) 

このやりとりを瞬間的に、考えずにすぐに応えられるようになるように質問を変えながら延々と続けます。
英語の「反射神経」を鍛える、という感じです。
そして上記の場合だと"now"を言い忘れるとか、文章の最後を上げてしまうとか(whで始まる疑問文は、文章の最後を下げて発音する)すると、先生の優しいお叱りを受けてしまうのであります。

最初は "Is this a pen?" くらいの難易度の文章から始まりますが、今は

先生:”Would you buy a bicycle if you thought it was rather too expensive?"
僕:"No,I wouldn't buy a bicycle if I thought it was rather too expencive because I don't have enough money.(否定文で答えたときは、because以下を瞬間英作文しないといけないのです)
みたいな感じで、「仮定法」(懐かしい)の入ってくる文章をトレーニングしたりしています。

あわせて利用しているグラマーの教科書。DMEは僕的にはグラマーの授業も兼ねていて、先生もそれを理解してくれているので、このテキストを参照しながら勉強してます。カランメソッドとの相乗効果抜群。

カランメソッドでは、上記の教科書の他に
「CROSS x ROAD Method」という教科書を使用します。
これはこの学校独自の教科書で、カランメソッドを取り入れている点はDMEと同じなんですが、
日常会話頻出構文を使いながら楽しく覚えられる例文がいっぱい乗っているので、
英会話力をアップさせるのにも有用だなぁと思っています。
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ただクロスロードメソッドがどれだけ面白い例文を採用してくれていても、
基本的にカランメソッドは「筋トレ」に例えられることからも分かる通り、ひたすら退屈でとても辛い練習です。
しかも本当に筋トレっぽいなーと思うのは、体調が悪かったり、ちょっと寝不足だったりすると途端にパフォーマンスが下がる点。
先週、どうにも体が怠く(今となっては風邪のひき始めだったのかな?とも思うのですが)あまりに解答がスムーズに出て来なさすぎて、先生の逆鱗に触れてしまい「もうやめる?」と難詰された時は年甲斐もなく涙が出そうになりました。

未だに僕の一番苦手な授業です。

でもそれでも根気強く(自分で言うな)続けているのは、
マネージャーさんが勧めてくれたから。

そしてこのメソッドは、確実に英語を話す力の基礎的な部分を支える土台を作ってくれていると思います。
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そして授業で得た力を実践するべく、近くのこういう所に行って買い物をしてみたりするのであります。先生も、やっぱり一番の教材は実践だって言います。教室の中の英語は教室の中でしか通用しません。

③Practical English
これは学校が採用している正式な授業の呼称ではないんですが、
この授業の呼び方がよくわからないのと(なのでみんなは教科書名を言います)
大学で受講していた「Practical English」の授業にとてもよく似ているので、こう書かせてもらいました。
IMPACT ISSUES : SB W/CD
Richard R. Day
Pearson Japan
2002-02-05

教科書。恋愛、結婚、家庭、人権・・・。いろんなトピックについて先生と語り合うのを目的にした教科書です。マンツーマンの授業だからこそ活きる教材なんじゃないかなと思っています。同種の他の教材と比べて英文が平易な割にトピックが抽象的なので、話が膨らみやすいんじゃないかと思っています。
どちらの授業も、あるエッセイや新聞記事を読んで、その内容を要約して先生に伝え、合わせて自分の意見を述べ、先生の質問に答えていくというもの。

ネットを活用する場合もあって、こないだは、授業でこちらのサイトのこの記事使いました

当然ですが、この授業では実践的かつ総合的な英語力が求められます。
僕は当初はこの授業が大好きだったんです。

なぜなら、どんなに難しいトピックでも、
「自分の論旨を先生にきちんと伝えることができている」っていう感覚があったから。

ただこれは、こちらの英語力ではなく

「先生が、こちらの意図を汲み取って正確な英語に直してくれる力」

つまり先生のコミュニケーション能力の高さによるものだっていうことがわかってから、
逆に「自分の思うことがロジカルに伝えられない」っていうもどかしさに悩むようになってしまい、
今はちょっと苦手になっています。

ちなみに昨日、1月6日のお題は「日本の不況がグローバル経済に与える影響」に関するもので、
自分なりの意見はあるにも関らず、それが英語できちんと表現できず、大変悔しい思いをしました。

④スピーチ
スピーチクラスは基本的に週一回開催されるクラスで、
新入生と卒業生は出席しなければならないのですが、
その他の在校生は任意で受講できます。

スピーチは2〜3分程度の短いものですが、
そのための原稿を用意して、文法的な誤りをチェックしてもらい、
スムーズに発音できるよう発音の授業で繰り返し練習し、
夜は先生が録音してくれたお手本を聴きながらベッドに入る。

と言う、事前準備にとても時間がかかるクラスです。

・原稿作成は英作文の練習
・スピーチの練習は発音練習

これが一度にできてしまうのが特徴で、
大変な分だけ、効果はてきめんだなと思っています。

僕の場合は「緊張して上手く話せない」って言う、
英語力とはあまり関係ない部分に問題を抱えているのですが、
それでもこのクラスを受講することの意味は本当に大きかったと思っています。

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当然のことではありますが、フィリピン語学留学の英語はオーラル中心に構成されています。
ただ、ここにきておいてこういうことを言うのもなんなんですが、
僕はオーラル重視の英語教育には甚だ懐疑的で、
グローバリゼーションの名の下に、英語を「話す力」を「読む力」「書く力」に優先させる今の傾向は危険だとさえ思っています。

僕は「世界一周」という目的のための手段として英語力を身につけるべく、
半ば必要に迫られてここにきましたけれど、
英語力の向上と合わせて、日本語話者の矜持といったものも獲得できたことが、この留学の大きな収穫の一つだったと考えています。

日本語という、極めてハイコンテクストな言語をある程度自在に操れる能力っていうのは、
英語の世紀である今のこの世界で、とても異彩を放つものなんじゃないでしょうか。
 
その辺りのことに、明日のエントリーでは触れてみたいと思います。 

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