「現代では、何者かであることを拒否し続けない限り、容易に何者かにされてしまう。
そのために狂気が必要ならば、ぼくは喜んで受け入れることにしよう。
ー 鈴木健
鈴木 健
勁草書房
2013-01-28

上記はツイッターのTLに流れてきたもの。尊敬する独立研究者の森田真生さんが講演で、同じく尊敬する鈴木健さんの言葉を引いたものです。森田先生が引いた鈴木先生の言葉なので、罷り間違ってもおかしなものではないはず。安心して引用させていただきました。
おすぎです。

先日、出堀良一さん(カズさん)にお会いする機会を得ました。
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左が「カズさん」こと出堀良一さん。旅人ナイトにて。

1度目は「旅人ナイト」という、セブのゲストハウスのイベントで。
2度目はセブの居酒屋で。

出堀さん(→こちら)は現在7年半かけて自転車で世界一周中の方で、知る人ぞ知る、という方なんだそうですが、ぼくは寡聞にして存じ上げず。

カズさんがこれまで自転車で地球を走った距離は10万キロ。
すでに地球を2周半できる距離を移動されているとのこと。
そしてまだまだ旅の途中。僕がお会いしたフィリピンがちょうど100カ国目。
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カズさんの愛車。近くで見させていただいて写真撮らせていただいて、触らせていただきました。ええやろー。
事前の情報からは、とても寡黙でストイックなイメージの方なのかな、と想像していたのですが、
実際にお会いしてみるととても気さくで明るいお兄さんでした。

カズさんのお話は、本当に数々の至言に満ち溢れていて、もう感動しっぱなし。

地球に抱かれて生き、地球の懐深くで眠る旅人。

そんな方のお話が、僕たちの琴線に触れないわけはありません。

その全てをこの記事に書こうとするととんでもない長さになってしましますし、
そもそも僕の41歳の忘れっぽい脳は、その全てをメモリーできるような機能を持ち合わせていないので、
とっても印象に残ったお話をここに書いてみようと思います。

カズさんのお話の中で、僕の心に深く突き刺さったのが

冒険と無謀を履き違えてはいけない

というもの。

僕たちがテレビなどのメディアの情報から作り上げる冒険家のステレオタイプって
向こう見ずで危険を恐れない、
命知らずの勇敢な人たち。

といったあたりが関の山だと思うのですが、お話を伺っていて僕が思ったのは
「この人は徹頭徹尾、リアリストなんだ」
ということ。

7年半も日本に帰らず世界を自転車で旅している人がリアリスト?

灼熱の砂漠を何日もかけて横断(縦断)し、4000mオーバーの峠を1日に何座も走破して、
草原にテントを張り、深山幽谷に抱かれて眠るカズさんを、
現実世界とは少しかけ離れた世界の存在だと思うのはある意味自然なリアクションなのかもしれません。

そして僕たちの奔放な想像力がもたらしてくれる無限の空想の世界を、
現実世界に反映させて生きている人たちのことを「冒険家」と仮に呼ぶとするのなら、
冒険家がリアリストだっていうのは少し奇妙に聞こえるかもしれません。

けれどカズさん曰く
「冒険家は、周到な事前準備と綿密な計画に基づいて行動する。その計画の実行に当たってリスクをきちんと査定して、もし難しいと判断すれば計画を中止することも厭わない。冒険家に失敗は許されないからだ。」(かなり要約してますが、要旨は外してないはずです)

体一つと自転車で世界を旅するカズさんの冒険を可能ならしめているものは
「お金」でも
「地位」でも
「名声」でも
「他者からの羨望」でもなく

「今、それがしたいから」という素朴な欲求と、
「それを実行したとして、自分の体は大丈夫なんだろうか?」
という、身体という現実(と限界)をベースにした自己との対話であるということ。

「自分はここに行きたい。でもそれを実行に移したとして、果たして自分は生きていられるのか?」

全てのシミュレーションが自分自身の身体を基準に行われる。
こういう感覚で物事の実現可能性を査定する人を「リアリスト」と呼ばずになんと呼ぶのでしょう?

現代に生きる人々の多くは
「お金」とか
「地位」とか
「名誉」とか
「他者からの羨望」とか
「お隣さんがそうしているから」とか

僕たちの基礎的な身体的欲求を直接的には満たすことのないもの、
つまり「欲望」

を基準にして、その行動を決定してしまいます。
それがあたかも自分自身の行動に影響をあたえる、リアルで決定的なリスク要因であるかのように。

友達は偏差値60の第一志望の大学に合格したけど、自分は第二志望の大学しか受からなかったとか、
友達は結婚して、都心に立派な分譲マンションを購入したけど、自分はまだ独身で借家暮らしであるとか、
幼な馴染みのあいつはベ○ツに乗っているけど僕の車は軽自動車だ
っていう比較がもたらす劣等感は、
食欲を一時的に減退させてしまったりすることはあるのかもしれませんけど、
そのことと、「今この瞬間の判断を誤れば生命の危機に瀕する」という状況は根本的に違っていると思います。

「名誉」を失うことで「死ななければいけない」と考える人はいるかもしれませんが、
「飢え」が100%僕たちの身体を損ない、僕たちを死にいざなうのと違って、
名誉の喪失は、それがもたらす精神的・肉体的損失には極めて個人差があって、相対的であるという点で、「欲求」ではなく「欲望」の充足の失敗例の一つです。

でもそれが、時に自分の生き死にに関わってくると勘違いしてしまうくらい、(だから人はうつ病になるのかもしれないのですが)
僕たちは「欲望」という名の他者の視線の網の目に深く絡め取られています。

自分は人からどう思われているか?

欲望は常に他者の欲望を介することで自分の欲望として顕在化しますから、
(「人は他者の欲望を欲望する」byジャック・ラカン)
そこには必然的に「他者の目」を気にする自分が割り込んできます。

そしてもちろん、欲望は人間を人間たらしめている重要な要素の一つですから、
それを頭から否定したりするつもりは全くありません。

やっぱり人から「すごいねー」言われたら気分いいですし、
みんなが持っているものは、自分も欲しいと思ってしまいます。

けれどこの「欲求」と「欲望」の履き違いがもたらす多くの悲喜劇と
「みんなと同じでなければならない」という社会の空気にうんざりしていた僕にとって、
カズさんの生き方は、本当に魅力的に映ります。

とりわけ僕たち日本人は、しばしば「周囲がそうしているから」という、
なんの理由にもなっていない理由で、ある人の行動をコントロールし
「みんなとちょっと違うことをしている」という、
実はなんの理由にもなっていない理由で容易に人を差別し、
「どうして人と同じようにできないのか?」という問いが、
ほとんど何も問うていないことに気づかないままその言葉を投げつけて、人を傷つけます。

それで傷つく人がいるということにすら想像が及ばないくらい、無自覚的に。


日本を覆い、日本人の行動を深く規定する「空気」の正体を鋭く描いた問題作。日本人として耳の痛い話が満載の、読んで目から鱗が落ちる名著です。

けれどそれが「みんながそうであるから」っていう
「多数派であることそのものがもたらす正義」に基づくマジョリティの臆断だと気がついた時、
僕を追いかけ回してきた「正義」という名前で呼ばれているなにものかって、
実は欲望のような実体のないものなんだと気付き、自分の中で、何かが大きな音を立てて弾けたように思いました。

これはカズさんのおかげであり、クロスロードのおかげであり、そこで出会ったたくさんの仲間のおかげです。

「欲望」や「同調圧力」が僕たちに求める振る舞いを無自覚的に忠実にトレースする生き方と、
「身体」や「自己」との対話を通じて、自分自身の身体の声に耳を傾け、自分自身であり続けることを中心に据えた生き方と。

どちらが現実で、どちらが非現実やったんやろう?

カズさんのような、徹底的なリアリストのお話を伺っていると、その境界線が緩やかに溶解していく感覚に包まれていきます。

空想的に生きる人ほど、実は徹底的なリアリストなんだ。

そして願わくは、僕もそんな空想的リアリストの一人でありたい。

カズさんのように現実と空想の振れ幅が大きな人は、リアルな世界を冷酷なくらい峻厳に査定しながら判断し、行動します。

冒険を、ただの無謀で終わらせないために。

カズさんはそう教えてくれました。

僕はカズさんの足下にすら及ばないような人間ですが、それでも、
世の中の大多数の人々が「正しい」として疑わない現実が、
実は欲望を軸に構成された虚構の産物なのかもしれない、ということを疑うだけのリアリズムは持ち合わせている
つもりです。

カズさんの持つ徹底的なリアリズムからすれば、まだまだリアルと空想の境界線を行き来している赤ん坊のような現実認識かもしれないけれど、
この世界を少しだけ、違った角度から眺められる喜びは、この先の人生で大きな意味を持つことになるかもしれない。
そんな淡い期待に膨らませています。

僕は確かに少し変わった人間で、世間一般の人とは違いますし、
日本人一般が考えるような価値からは少しずれたところで生きてきたのかもしれません。

みんながいいと思うものが好きになれない。

そのことに対するコンプレックスは、
僕を41年間ずっと苦しめ続けてきたもので、簡単には癒えることはないのかもしれません。

けれど、自分が現実だと信じて疑わなかった世界を飛び出し、
自分の体一つで世界を旅して回る身になった今、

なにものかであることを、常に他者から求められ続けてきたこれまでの人生がある種のフィクションで、
自分がなにものであるのかを、自分自身で決定しながら毎日を過ごす、旅人としての今の自分がリアルな自分なのかもしれない。
そう思っています。

それは社会的な人たちからすればある種の狂気に映る振る舞いなのかもしれないけれど、
自分が自分である、ということを常にしっかりと確かめながらこの時間を生きることのできる、
自分の両足でしっかりと足元の大地を踏みしめていることを確かめられる、
贅沢な瞬間の連続であるような気がしているのです。

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シドニー大聖堂。ハイド・パークの東側正面に位置しています。

今僕は、2ヶ月半過ごしたフィリピンのセブ島を後にして、
夏真っ只中のシドニーで、このブログを書いています。

シドニーの、抜けるように澄んだ青空と、サーキュラー・キーからハイド・パークに向けて緩やかに下る坂道を吹き上がってくる心地よい風を感じている僕と、
ソーシャルワーカーとして、何者かになるよう求められていながらその何者かになることができず、いつも苦しんでいた自分と。

願わくは、シドニーの夕陽がオペラハウスを真っ赤に染め上げているこの瞬間を目に焼き付けている今の自分が、リアルな自分であってほしい。
それが仮に、ある種の狂気であったとしても。

なんのてらいもためらいもなく、今は心からそう願っています。 
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