2016年12月

おすぎです。

突然ですが、昨日、数年ぶりにう◯こを踏みました。

「セブ島のサグラダ・ファミリア」と言われる、丘の上の白亜の教会「シマラ・チャーチ」から、セブ市内の名所「サントニーニョ・チャーチ」に向かうバンに乗車する直前の出来事です。
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「シマラ教会」。こんな綺麗な建物の周辺にウンコ落ちてるとは。どんだけ奥深いねん、フィリピン。多分教会の敷地の外で踏んだと思うので、教会自体に罪はありません。
うん◯を踏んだのは本当に数年ぶりのことで動揺してしまい、被害にあったサンダルを洗うのにかなりの時間を費やして、バンの発車を大幅に遅らせてしまいました。結果、乗り合わせたたくさんのフィリピン人の皆さんとドライバー、一緒に行ってくれた2人の仲間にとても迷惑をかけてしまいました。

本当にごめんなさい。
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「シマラ教会」。セブのサグラダファミリアだそうです。現在も増築中。先の写真でお分りいただける通り、セブの青い海を望む小高い丘の上にある、本当に美しい教会でした。

学校のクリスマスパーティーと教会巡り。フィリピン人の精神世界に深く根付いていると思われる「カトリック」を強く感じ、そのことについて考えるきっかけとなる週末になりました。
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ちなみにウンコを踏んだのはこの辺のような気がしています。教会の門前町の風景。写真はお昼を食べる前。ただ、ご飯食べてる時は匂いに気づかなかったので、多分この後30分以内に、事件は発生したんだと思われます。

僕は現在フィリピン・セブの語学学校「cross x road」で、一日3コマ、6時間の英語によるマンツーマンレッスンを、フィリピン人の先生から受けています。

授業そのものは、その前後の予習・復習を含めるとかなりハードなものなのですが、先生との雑談が楽しくて、特に日本とフィリピンの文化、習俗の違いの話になると、時間を忘れてついつい長話をしてしまいます。
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「シマラ教会」。くどいようですが、この敷地内ではウンコは踏んでないと思います。というか、こんな美しい空間にウンコが落ちてるわけないので。

フィリピン人の先生は、コミュニケーション能力がものすごく高いので、例えば習俗や文化、宗教というような抽象的なトピックの議論でさえも、こちらの意図をきちんと汲んで、会話が途切れないようにうまく話を繋いでくれるのです。


もちろん、会話の中での文法的な誤りは、その都度指摘されるのですが(一応英語の授業なので)。

最近はクリスマスの話題で持ちきりで、授業でもしきりにその話になります。

① 
先生:おすぎさん、クリスマスパーティのプレゼントはもう買ったの?
僕:うん、昨日「カントリー・モール」で買ったよ。
先生:そう、それは良かった。ところでラッピングはちゃんとしたの?
僕:うん、クリスマスの紙袋を買って、そこに入れようと思ってる。
先生:あー、知ってる。で、包装紙には包まないんでしょう。
僕:うん。なんで?
先生:生徒さんは毎年そうしているわ。ジャパニーズスタイルね。
僕:もちろん、日本にも贈り物をラッピングする習慣はあるよ。
先生:でも、デパートのカスタマーサービスでしてもらうんでしょう?自分でするんじゃなくて。
僕:もちろんだよ。自分でやったらぐちゃぐちゃになるもん。そんなの渡したら相手に失礼だよ。
先生:そうかな。私はそうは思わないな。
僕:どうして?
先生:時間がかかっても、うまくできなくても、私たちは自分たちの手で自分が贈るプレゼントをラッピングしたいの。だってそのためには時間とeffortが必要でしょう?
誰かのために費やした時間やeffortも、私たちにとっては大切なプレゼントだもん。私のいうことの意味はわかってもらえる?


先生:もうすぐボーナスなの。嬉しい。
僕:へぇ、それは素晴らしいね。でも先生たちはボーナスってすぐ使っちゃうんでしょう?フィリピン人は貯金が苦手な国民なんだって、別の先生が言ってたよ。
先生:うん、そうね。
僕:でも日本だとそれって「浪費」で、怠惰や自己管理能力の欠如って思われるんだ。ボーナスを貯金せずに全部使うだなんていうと、あまりいい顔はされないよ。
先生:確かに、日本人はお金を節約するのがとても上手だし、それって日本が豊かな国になれたことの理由の一つだと思う。でもね、おすぎさん、私たちはこの時期のボーナスのほとんどをプレゼントのために使うの。
僕:うん、プレゼントが先生たちの大切な文化だってことは知ってる。
先生:でも日本とカトリックの国では、プレゼントの意味が違うみたいね。
僕:へぇ。どんな風に?
先生:私たちはもらったボーナスを自分たちのためにはあまり使わない。私たちは、月々のお給料以外のサラリーを、家族や隣人、小さな子供達や貧しい人たちとシェアするためのものだと思ってる。それは神様からの贈り物でもあるの。そんな人たちとシェアするために、素敵な食事とプレゼントを用意して、大切な時間を過ごすの。私たちカトリシストにとってクリスマスってそういう日なの。それって日本人のは奇妙に映るかしら?


今こうやって、授業中の印象に残った二つのやり取りを(村上春樹風の)日本語で意訳していて、改めて自分のことが恥ずかしくなります。

この二つのやり取りは、「贈与」と言うことに対する日本人とフィリピン人の考え方の本質的な違いを、とても的確に教えてくれているように僕には思われるからです。(僕が便宜的に日本人を代表してしまってます。ごめんなさい)

贈与論 他二篇 (岩波文庫)
マルセル・モース
岩波書店
2014-07-17

贈与といえば、マルセル・モース。

フィリピンはカトリックの国で、ことさらクリスマスを祝うことについてはとても熱心な国だそうです。
事実、先生方は僕がこちらに到着したその日から、授業中、休み時間、至る場面で「クリスマスはどう過ごすのか?」「プレゼントを送る人はいるのか?」「学校主催のクリスマスパーティには参加するのか?」など、
およそ日本では考えられない熱量でクリスマスを心待ちにしているのでした。

聞けば ber のつく月(September October...)からは、クリスマスのことを考えてそわそわし始めるのがフィリピン人の習性だそうで、それもあながち大げさではないなっていうことは本当によくわかります。

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日頃の感謝の気持ちを込めて、僕に英語を教えてくれている Jerah, Angelie, Joanの3人のために用意したプレゼント。贈り物するのって気持ちいいです。
もちろんちゃんとラッピングしています。

クリスマスといえばプレゼントですが、

この国では、贈り物に乗せて、いろんな思いや言葉では伝えられない感情を交換し合っているようです。

そして彼らは、「贈与」を通じた交換それ自体を維持し続けることが、人間にとって重要だと言うことをきちんと理解している、僕にはそんなふうに思われます。
(カトリックと贈与の関係について面白い記事を見つけたのでリンク貼っておきます。→こちら

人類学をはじめとする20世紀の知見は、人間が「交換することをやめることができない存在」であると言うことを鋭く看破しました。

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)
レヴィ=ストロース
中央公論新社
2001-04

人類学といえばレヴィ=ストロース。レヴィ=ストロースといえば「野生の思考」と「悲しき熱帯」(と「親族の基本構造」)

「貨幣」「財産」そして「言葉」

人間は、様々な水準で、様々なものを交換しあってきました。
そして、「贈与」に基づく交換は
「与えることを拒んではならない」(与える義務)ということと
「贈りものを受け取ることを拒んではならない」(受け取る義務)ということそして
「贈与を受けたものは、お返しをしなければならない」(返礼の義務)
というシンプルな原則に基づいて、世界中で行われています。
(『贈与論 他二編』)
果てしなく続く「贈与」と「返礼」のサイクル。


物を与え、返すのは、互いに敬意を与え合うためである。 
                             wikipedia 「贈与-贈与の義務-より抜粋」

交換が止められない。それは多分、人間の本性のある一面なのかもしれません。

そして、この習俗を持たない社会集団が、地球上に存在しない、という事実が、

「贈与」を行わない社会集団は滅びる。

っていう端的な事実を表してくれているんです。(諸説あり)

西太平洋の遠洋航海者 (講談社学術文庫)
ブロニスワフ・マリノフスキ
講談社
2010-03-11

贈与といえば、マルセル・モース

言葉は目には見えないものなので、贈与や返礼のサイクルにはそぐわない代物のように思われるけど、
僕たちがしばしば他人の言葉を誤解したり、思いもよらない形で人を傷つけたり、
他人からすればなんでもないような言葉にひどく感動したりするのは、
言葉それ自体が常に「いい過ぎてしまう」か「言い足りない」か
のどちらかにしかならないようにできているからで、

「あなたのいいたいことはもう全部わかった」

というフレーズって、多分、ある関係が終わりつつある人たちの間で交わされるものなんじゃないか?
っていう想像があながち間違っていないと思われることからも分かる通り、
それが決して等価で交換されえないように構造化されているっていう事実が、
言葉の贈与的な性質を見事に照らし出していると思います。


どれだけ立派に言葉を操れるようになったとしても、常に「いい過ぎる」か「言い足りない」
それが言葉だと思うんです。


そして言葉がどれだけ誤解や誤読の可能性に満ち溢れていたとしても、
僕たちは言葉を信じ、学び、それを洗練させ、相手を思いやり、他者とコミュニケーションを取り続けたいっていう欲望を維持し続けます。

こんなに非生産的で非効率的なことが延々と続けられるのは、言葉のやり取りそのものの中に潜む愉悦、人間の本性に由来した愉悦ー贈与交換の持つ力ーによるとしか考えられないのです。

そしてそれは同時に、「まずは与えることから始める」という、贈与を中心とした互酬性のサイクルに身を置くことを是とするカトリック信仰のある側面を照らしていると思います。

フィリピン人はとても家族を大切にするといいます。

そのために必要なことは「コミュニケーション」を続けることだ。

それは家族の絆を維持していくのに、絶対に欠かせないことだから。

僕に英語を教えてくれている3人の先生は即答してくれました。
「贈与」と「返礼」の仕組みを深く内面化している彼らにとって、
言葉をやり取りするということは、クリスマスプレゼントと同じような「贈り物」なのかもしれない。
そんな気がしています。

この時言葉に乗せてやり取りされているのは、
相手に対するリスペクトや真心、思いやりや、誠実さといった、
他者を思いやり、言葉が通じない他者でさえも理解できるっていう
贈与交換としての「言葉」に対する信頼感と真摯な態度なのかもしれない。

クリスマスプレゼントをラッピングし、それをわざわざ相手の自宅まで届ける手間を惜しまない、あの気持ちに通じるものがあるように思われます。

事実、まだまだ拙い英語しか話せない僕のような日本語話者と深く意思疎通できる先生たちの力が、
僕の英語学習のモチベーションを維持させ続けてくれているっていう事実そのものが、
先生たちからの僕への、言葉を介した、言葉によらない贈りものになっています。

そしてこれもまた、今日の人類学的知見が明らかにしてくれているように、
「自分の理解も共感も絶した他者とですらコミュニケーションできる」
という、コミュニケーションに対する飽くなき欲望が、
人をサルから人間に進化させる、原動力の一因となったのです。

そのことは、端的に「葬礼」という習慣に現れていて、
僕たちはしばしば、死者とコミュニケーションを取ろうとしているし、
そのことを、別段不思議に思わないようにできています。

教会、神社で祈り、お墓の前で手を合わせることと、
自分の目の前にいる他者と言葉を交わし、共感し合おうとする振る舞いは、
根源的な部分で通底する何かがあるのかもしれない。

リスニング力やスピーキングのスキルそのものをアップさせてくれること以上に、
英語に対する思いとか、
他者と意思疎通できることの愉悦とか、
言葉のやり取りが続くことの心地よさとか、
そういうものを感じさせてくれる、メタレベルのやり取りを、
自分は先生たちとしている。

そしてそんな贈りものに対する返礼をしたくて、僕は先生が聞き取りやすくなるように、今日も[r]の発音の練習をし、正確な文法で構成されたセンテンスを話そうとする。

そういうやり取りから得られる喜びって、
日々のタイトなレッスンではなかなか実感することは少ないけれど、
僕の英語力だけにとどまらず、
僕の生きる力そのものを賦活してくれているようにさえ思えます。

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サン・トニーニョ・チャーチ。大航海時代に偉大な冒険家、マゼランがこの国にもたらしたサントニーニョ(幼少期のイエス)は、多くのフィリピン人の心にあり続けているようです。でも、うんこを踏んだ靴でセブ島の聖地、サン・トニーニョ教会に足を踏み入れた俺はやっぱりダメ人間やな。すみません。

そんなフィリピン人の精神に深く息づくカトリック。
世界史の授業では、カトリシズムはプロテスタンティズムに対してネガティブなイメージをもって語られることが(少なくとも僕の学生時代は)多く、
そのイメージが強かった僕は、カトリックとその象徴である教会という場所を
旧態依然としたもの、保守的なもの、しばしば怠惰で権威主義的なものの象徴と捉えていましたし、
それがあながち間違っていないこともまた、この国に来て感じたことでした。
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ママ・マリア。ある日涙を流していたんだそうです。それ以来、この教会の奇跡の象徴なんだそう。神秘的な雰囲気を醸し出していました。

けれどそれに対する良い・悪いといった価値判断は厳に慎む必要がある。

そんなふうに、今は思っています。
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いろんな色のロウソク。全ての色に、それぞれの意味があって、礼拝者は自分の願いにフィットした色のろうそくを買います。外の景色と相まって、とても荘厳な雰囲気でした。

セブを代表する二つの素敵な教会の、壮麗で静謐な空間に身を置いて、
ひざまづいて祈る人の隣で過ごした静かな時間は、
権威主義的なものの象徴であった教会が、贈与と返礼のサイクルを象徴している、
優しくて、暖かい場所だっていうことをそっと教えてくれているように、
その時の僕には思われて、先の先生とのクリスマスをめぐる幾つかのやり取りも含めて、
自分がとっても小さくて歪んだフィルターを通して物事を見ていたんだなっていうことを知る、
良いきっかけを与えてくれたのでした。

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こちらはセブ市内のサン・トニーニョ教会。厳かな時間が流れていました。

 そしてフィリピンの人たちが大切にしている贈与と返礼のサイクルに、
僕もまた、きちんと参加させてもらえてるんだなっていうことに、
気づくことのできた週末でもありました。

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 教会の後入った「kawaii cafe」は日本人経営。コスプレの美女が集う不思議な空間でした。記念に一枚撮らせていただきました。顔ちっちゃ!うしろにはtarokichi

おすぎです。
先日、セブ島南部に漂流民族「バジャウ族」を訪ねてきました。

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バジャウのコミュニティに隣接する地域には、高度経済成長前の日本を彷彿とさせる風景が広がっていました。

大規模な開発で汚染された港湾部の汚泥の上に、今にも崩れ落ちそうな無数の木造住宅が密集して立ち並ぶ光景。

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かつては高床式の家の下には青い海が広がっていて、そこで魚介類をとって生計を立てていたと言います。

衛生状態は劣悪で、悪臭が常に漂っています。
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ひしめき合うように建てられた家々。奥にみえる建造物とショッピングモールが、不条理感をさらに演出します。

バジャウ族のなんたるかについては、今回の見学をコーディネートしてくださった松田大夢さんのブログに詳しいので、ここにリンクを貼っておきます。

【驚愕】松田大夢がセブ島で一緒に生活してる『リアル半魚人バジャウ族』って何?」リンクは→
こちら

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21歳にしてフィリピンに持ち家がある松田さん。バジャウのコミュニティに溶け込み、共に生きています。21世紀のセツルメントを見た気がする。すげー。

僕なりにまとめると、バジャウ族とは
東南アジア島嶼部を生活拠点とする海洋民族。
主に漁撈採集を生業としていた。
陸に上がることは少なく、洋上で生活する。
経済状況は芳しくなく、生活環境は劣悪。
良質の医療を受ける機会も少なく、乳幼児の死亡率も高め。
その他教育、就労など、社会生活の多くの場面で差別を受けている。 

上記の松田さんのブログ記事(こちら)にもある通り、日本政府のODAによる沿岸地区の開発とそれに伴う環境汚染が原因で、バジャウ族はその生業を奪われました。
と言って丘の上には精神的にも物理的にも彼らの居場所はなく、そこがかつて豊穣な海だったとは到底信じることができない「死の海」の上に今もその生活を営み、アクセサリーなどを細々と売ったり、物乞いをしたりしながら生計を立てているとのことでした。

複雑な気持ちを抱えながら、バジャウのコミュニティを後にして松田さんとバジャウの皆さんと、西に船を進めること2時間。そこには本来あるべき海の姿と、バジャウの人々の姿がありました。
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写真はバジャウ族ではなく、Tarokichiであります。青い空と海が似合う男やなぁ。

この美しい海を眺めていると、本来なら人を豊かにするはずの経済合理性が、人々から様々なものを奪い、傷つけ、損なっていく矛盾と不条理を思わずにはいられなくなります。

そしてその不条理に出会った時の僕たちの反応もまた不条理に満ちている。そんな気がしています。

「彼らは自分たちとは違う」

「彼らの今の境遇は、彼ら自身の怠惰がもたらした結果なのだから、その不利益もまた彼ら自身の責任において引き受けていくべきだ」

という差別・偏見は言わずもがなですが、

そのことについて感傷的になったり、その当事者を憐れんだり、その境遇に同情することで、本当に見なければいけない現実から目をそらすことも、何か違う


ある人たちが不幸である、惨めである、怠惰である、という前提から始まる世界は、
自分と他者との間に決して越えられることのない境界線を築いて、
その境界線越しに他者や事象を眺めるまなざしが、必然的に対象を「見下す」視線にならざるを得ないという暴力性を受け入れることを、その対象に強いるという、何重にも張り巡らされた暴力の網の目の中に、自分自身とこの世の全てをからめとってしまう世界を意味します。

けれど同時に僕たちはみんな、多かれ少なかれ弱くて傷つきやすいので、
そういう悲しい網の目をいろんなところに張り巡らせて、
自分の理解の及ぶ範囲のものだけを自分の周りに並べることで、
辛い現実から目を逸らしつつ、どうにかこうにか毎日をやり過ごしています。

でもそのことが、知らず識らずのうちにたくさんのひとを傷つけたり損なったりしていることもまた逃れようのない事実だし、
そういう他者の振る舞いに傷つき、損なわれ、時に立ちすくんでしまうのもまた事実。

だから僕たちが、自分の理解や想像を超えたところにある物事に出会った時に大切なのは、
「それは自分の理解や共感の範囲を超えている」という事実をきちんと受け入れて、
できることならその場所に自分の身を置いて、その人々と同じ時間を共有し、
今、この場所でその人たちが見ようとしているものを見ようとする

ことなのではないかと思っています。

僕たちが経済的な繁栄を享受している一方で、バジャウの人たちはこの美しい海を転々と漂流しながら
波の音を聞き、海に潜って魚をとり、風と話し、歌を歌い、踊り続けてきました。

そしてそれはきっと、とても素敵なことなんだと思います。


洋上のスラムには、冷蔵庫や洗濯機や、テレビやエアコンがない代わりに、子供達の屈託のない笑顔、強いコミュニティの絆があります。
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僕たちの社会が今、懸命に取り戻そうとしているものを大切にしながら生きている社会があります。
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ここの人たちは本当に家族を大事しているってことがひしひしと伝わってきます。

より豊かになりたいと願い、ストイックに生きることを善しとする生き方と
所与のものから最大限の快楽と愉悦を享受しようという生き方。

相反する二つの価値の結節点に松田さんがいて、
そこを僕たちのような旅人が訪れ、
バジャウの人たちの獲った魚を一緒に食べて、
波の音を聞きながら、太鼓のリズムに身を委ねているとき、
少なくとも僕の中では、彼我の差異は完全に相対化されていました。


僕にはゴミにしか見えない空き缶で作られた打楽器が素敵なリズムを奏でる。そしてダンスが始まる。

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バジャウの皆さんがとってきて調理して振舞ってくれた新鮮な魚介類。あの◯モの姿も。

けれどどれだけ努力したところで、僕は決してバジャウ族にはなれないし、
おそらく経済的な豊かさを手放すこともできないし、
自分が価値ありと信じているものを疑うことから逃げてしまう。

だからこそ、逆説的ではあるけれど、その事実を涼しく受け入れることからしか、本当の意味での異文化理解は始まらないのだろうという気が、今はしています。

そして異なる文化や宗教に限らず、すぐそばにいる愛しい人や家族や友人、仲間でさえも、
僕に知ることができるのはそのほんのひとかけらにしか過ぎず、
それでもその人が大切な人だと思うから、その人が触れているものに触れ、感じていることを感じたいと願う。

私には、この人のことがわからないし、これからもわかることはないかもしれない。
でもこの人のことをもっと知りたいし、この人を失うことは悲しい。

そう思える存在が一人でも多くいてくれる世界は、たとえ物質的には満たされていなかったとしても、とても豊かで生きやすいものになるんやろうなと思うのです。

そして僕が昨日訪れた、海の上のスラム街は、そんなちっちゃな自分の手持ちの物差しでは簡単に測ることのできない豊かさで溢れていたのでした。

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